開業して気づいた、唯一無二の価値

━━すみずみまで意匠の凝らされたお家に、美しい調度品。失礼ながら飯田の山中にこんな素敵なお屋敷があるなんて、とても驚きました。

 

 

宮井啓江さん(以下宮井さん) ありがとうございます。我が家はもともと、このあたり一帯の年貢を集めていた庄屋なんです。そんな家なので、昔からさまざまな方が訪れていたようで。茶室があったり、お殿様をもてなす部屋があったり。この、前に棒がかけてある部分はお殿様用の玄関で、いらっしゃるときだけこの棒を外してお迎えしたそうです。

 

大名が家を訪れた際には、写真左下の棒がかかっている場所を外し、専用の玄関とした 写真=佐々木健太

 

━━お殿様までおみえだったんですね……! 今、カフェの名称となっている「九如亭」の名も、高名な書家の方によるものだとか。

宮井 「明治の三代書家」の一人に数えられた日下部鳴鶴(くさかべめいかく)が、明治26年6月にこの家を訪れた際に、残したこちらの書に由来しています。中国の詩経に「九如亭」と題する詩があり、この家に美しいものが九つあるということで、書かれたと聞いています。

 

店内の中心にかけられている日下部鳴鶴の書。近づくと明治26年6月との記載が見える 写真=佐々木健太

宮井 日下部鳴鶴は、飯田市の名勝の一つである天龍峡に点在する、特徴的な奇岩や淵から想起される情景を漢詩で名付けた「天龍峡十勝」の書を残した方で。そんなご縁で、ここにもいらしてくださったのかもしれません。

━━これほどのお屋敷ならばきっと、ご近所の方も長年「中はどうなっているんだろう」と気になっていたと思いますが(笑)、ここでカフェをはじめようと考えたきっかけは、どのようなものだったのでしょう。

宮井 すでに長年、私たち家族はこの母屋ではなく別棟で暮らしているので、建物の維持管理の意味でも「勿体無いからなにかやろうかな」とは思っていました。けれど、なかなか踏み出すタイミングがなくて。それでもある日、飯田商工会議所に開業相談に行ったところ、「ビジネスプランコンペティション」への参加を勧められたんです。これに応募することを決めてから一気に、ぼんやりとした思いが明確なビジョンになり、開業へと動き出していきました。約4年前のことですね。

━━ビジネスプランコンペへの参加が事業を考えるきっかけになった、という方は多いですね。

宮井 そう思います。最初はすごく軽い気持ちで応募書類の作成をはじめたんです。でも、今思うと自分で書いたビジネスプランを飯田商工会議所や飯田市金融政策課のみなさんがみてくださり、指摘を受けてブラッシュアップする過程がとても学びの多い時間でした。

 

写真=佐々木健太

 

━━どういう観点で指摘が入ったのか、覚えていますか?

宮井 場所がこういう、わかりにくい立地なので、「どういう工夫でお客様にいらしていただくのか」とか、まずは集客の問題が大きかったですね。

━━利用を中学生以上としたのも、最初からでしょうか?

宮井 はい。今も赤ちゃん連れで利用したいというお声もいただくんですが、なにしろ古い家なもので段差や暗がりも多く、一人でなかなか目が行き届かないので、悩んだ末このように決めました。

━━そして、来客数見込みや、客単価や、メニューの価格帯もコンペに提出するべく詳細に設定して。

宮井 そうですね。月にこれくらいの人数のお客様が来ないとやっていけないよとか、価格はこれくらいがいいのではとか、数字的な面を最初にかなりシビアに詰めていけたことは、今も指針となっています。

コーヒー一杯の価格も、最初は街のチェーン店さんに足並みを揃えないといけないのかな、なんて思っていたんですが……。「この場所全体が価値だから」とおっしゃっていただいて改めて考えなおして、市街地のお店などと比べたら少し、高めに設定させていただいています。その代わり、というのか、ここでしか味わえない時間をどう満足して楽しんでいただくのか、その部分に注力して店作りを考えました。

真冬以外は近くの「観音水」と呼ばれる湧水を汲んできてコーヒーを淹れたり、りんごジュースも近隣の農家さんのものを置かせていただいたり。この建物とともに、土地の魅力も感じていただけたらと思っています。

 

写真=佐々木健太

伝統的家屋の難点=改修費も、自邸だからこそ最小限に

━━いわゆる空き家を活用した「古民家カフェ」などは、今憧れる方も多い反面、事業を開始できるようになるための改修費が大きくのしかかると言われています。その点はいかがでしたか。

宮井 我が家は、住んでこそいませんでしたが使い続けている家でしたし、それこそ私も子どもの頃から「出かける前に廊下を掃いて行きなさい」と言われたり、とにかく手を入れて守ってきた家なので、改修費用はほとんどかからなかったんです。

━━なるほど、初期投資をほとんどすることなしにお店をはじめられたのは、子ども時代の宮井さんのおかげでもあるんですね(笑)。

宮井 もちろん、主に思い入れが強かったのは父ですが、私もしっかり、あれこれ手伝わされていました。

 

写真=佐々木健太

 

━━とすると、最初に準備されたのはキッチンでしょうか。

宮井 はい、飲食店の営業許可をいただくために新しく作った厨房が150万円ほどで。今思えばこれさえも、もう少しミニマムにもできたかな、と思っています。

あとは店内の調度品も、お出ししている器もほとんど、あったものを活用していて、新たに買い足したりする費用はほとんどかけていません。むしろここにあるものを生かすことが、この場所の魅力をもっとも引き立ててくれると思っています。

━━たしかに、どの家具も照明も、お家にしっくりと馴染んでいますね。器もとても素敵です。

宮井 今でもときどき蔵に行くと、「こんな器もあったんだ、使えそう」なんて、発見があるんですよ。器にはほとんど不自由しませんね。

 

店内で使用している器の一部。多くが蔵に収められていた年代物だ 写真=佐々木健太

 

━━ビジネスプランコンペでの特別賞受賞を経て、開業から4年が経過したとのことですが、ここまで続けてこられて、いかがですか。

宮井 常連のお客様もできるようになったり、遠くからも足を運んでいただいたりと、なんとかかんとか、皆様に支えられてやってこられたなあという気持ちです。ただ、最初のビジネスプランからは、かなり変わりましたね。

━━そうなんですね! どのようなところが?

宮井 一番大きな変化は、ランチをはじめたことでしょうか。最初は私だけでコーヒーを中心にドリンクとデザートで、としていたのですが、ご要望が多くて予約制のランチをはじめました。この部分は、母にも手伝ってもらっています。

あとは、年間を通じて自然発生的にイベント開催が増えてきました。今は、年間20回ぐらい。大人の読み聞かせ会など、毎年恒例のようになってきているものも出てきて、こうした催しも新たなお客様との出逢いにつながっています。

 

写真=佐々木健太

 

宮井 ただ、基本的なところは変わりません。本当の初期のころには「お酒を出したらかっこいい」とか「ゲストハウスはどうだ」とか、いろいろなご意見をいただいて迷った時期もありましたが、画業も含めた自分自身のライフスタイルを考えても今の形がいい、ということがわかっているので。従業員を雇うことなく、私にできる範囲でやる、という路線も、今後も変える予定はないですね。

カフェ店主と画家活動を瞬時にスイッチ「切り替えが上手になりました」

━━店内にかけられている大小さまざまな絵も、九如亭にさらなる魅力を添えています。多くは宮井さんご自身が描かれたものですか?

宮井 はい。学生時代は油絵を学んでいましたが、今はもっぱら日本画と、あと少し遊びでイラストも描いています。

 

写真=佐々木健太

 

━━東京で油絵を学ばれていた宮井さんがこちらに戻るきっかけも、絵を描くためだったとか。

宮井 そうですね。自然のほうが好きだったというのと、東京でも絵は描けますが、やはりこの場所で集中して絵を描きたいなという思いがあって、こちらに戻ってきました。

でも、カフェをはじめて半年ほど、心がざわついて絵が描けなくなってしまったんです。

━━それは……! 大きなできごとですね。

宮井 こんなことではダメだ、何のために始めたんだろうと、最初は焦りもありました。でも、しばらくして慣れと余裕がでてきたら、不思議とまた描けるようになったんです。

今では休日よりも営業日の方が描けるくらい(笑)。4時間ぶっ通しで集中して描くような時間は今、持つことはできませんが、30分でも深く深く集中できるような気がしています。切り替えができるようになったんですね。

━━描けるようにさえなれば、こちらでの暮らしの方が自然が豊かなぶん、絵の題材も豊富で、環境は最高ですね。

宮井 はい。辺りに咲く花や木々が絵の題材になることは多いですね。それに、カフェを経営しながら絵を描いていることで、地域の方に絵を依頼されることも多くなったんです。

わざわざアポイントをとって話にきて、というのではなく、ここに来たら話せるから、という感覚で、頼みやすくなったみたいで(笑)。うれしいですね。地域の特産品である「久堅和紙(ひさかたわし)」を使ったアクセサリーも、少しだけ手がけさせていただいています。

 

久堅和紙を使ったオリジナルアクセサリー 写真=佐々木健太

 

宮井 そして今後は、もう少し日本画をゆっくりと見ていただけるような空間を作ったり、見るだけじゃなく買っていただけたり、私がお願いした作家さんにギャラリーとして場所をお貸ししたりと、アートと結びついたカフェの色も強めていきたいと、構想を膨らませているところです。

「家が喜んでいる」と感じる瞬間が、継続の大きな力に

━━改めて、カフェを開業してよかったと思う点を教えてください。

宮井 なにより私自身がこの家の魅力を、やっと受け入れられるようになったことでしょうか。

━━それは、予想していない回答でした。

宮井 子どものころは、「こんなに掃除が大変な家は嫌だ、新しい家に住みたい」って思っていましたよ(笑)。

━━なかなかこの渋い魅力は子ども時代には気づかない部分でしょうか。

宮井 カフェをはじめる以前は、ここはもっと辛気臭くて、暗くて、まったく違う様子だったんです。小学校の友達も、「こわいからいやだ」って、遊びに来てくれなくて(笑)。それこそ、「私がもう少し前の世に生まれていたら」、なんて思うこともありました。

古屋敷の維持管理は途方もない仕事量で、悪くはなっても勝手によくなることはありません。今、同じ境遇の方なら誰しもが私と同じような不安や悩みを抱えていると思います。でも、私はここを開いたことで、多くの方の助言や、実際の手助けもいただくことができるようになりました。それは何より、ありがたいことだと思っています。

 

写真=佐々木健太

 

━━屋敷の維持管理を担う「古屋の守」という名のボランティアも募集され、活動があるとか。

宮井 はい。今も募集中ですし、不定期ですがいらしてくださいます。みなさん私よりも、この家を愛しているのではと思うほどです(笑)。

もちろん、この先も家は傷んでいきますし、不安が解消されるものではありません。それでも、多くの方に足を運んでいただいて、賑わって。そんな日々のなか、ふとしたときに「あ、家が喜んでる」と感じる、なんとも言えない瞬間があるんです。その、目には見えない感覚が訪れるたびに、この場所を開いてよかった、これからも続けていきたいな、と感じます。

━━ありがとうございました。

 

写真=佐々木健太