長野県飯田市が誇る地場産業といえば、紙製のひもで作られる伝統工芸品「水引」だ。その歴史は300年余りと古く、生産量は全国シェアの約7割を占めている。
そんな水引の一大産地で、明治10年に創業した老舗が「株式会社田中宗吉商店」。同社では今年3月、飯田市の新事業創出支援組織「I-Port(アイポート)」の支援決定を受け、新たな水引の市場開拓に乗り出している。
「古いだけじゃ、ダメなんです」。そう自戒を込めて語る、4代目で代表取締役の田中康弘さんに、新事業への思い、そして「飯田水引」の今後について話を聞いた。
大正時代に特許取得。老舗水引店の後継者がめざす、日常に欠かせない「水引」とは。 株式会社田中宗吉商店 田中康弘さん
大正4年に独自製法で特許を取得。
飯田水引の発展に貢献した祖父・宗吉の思いを継いで
━━現在御社で扱っている商品について教えてください。
田中康弘さん(以下、田中) 鶴、亀、松竹梅など、結納品を飾る水引細工をはじめ、のし袋や婚礼に関連するお祝い品の飾り、オーナメント関係、お正月飾りなどのアイテムを製造・販売しています。
昭和の時代、水引業界の主力商品は「結納品」だったんです。弊社では現在も東京の大手百貨店様や結婚式場等に問屋を通じて納めさせてもらっていますが、かつてはきらびやかな結婚披露宴が主流だったのが、時代とともに婚礼スタイルが変わり、市場もかなり縮小されてしまいました。最盛期には全体の7割を占めていた結納品の売り上げが、今では2割ほどに落ちています。
バブルの頃までは右肩上がりで、バブルが弾けた後もまだ需要はありましたが、状況が変化してきたのは平成6年くらいから。その翌年に阪神淡路大震災が起きて、世の中全体が「ウキウキしている場合じゃない」という意識に変わってきたのも影響しているかもしれません。
━━それ以前から、飯田は歴史ある水引産地でしたね。
田中 はい。明治以前の飯田では、「元結(もっとい、もとゆい)」と呼ばれる髪を結うための紙ひもの生産が盛んでした。今でもお相撲さんや時代劇の役者さんの髪結いとして使われていますが、その元結作りの技術を活用して発展したのが水引なんです。水引細工に加工する前のひも状のものを「生水引」と言い、この生水引製造だけで生計を立てていた時代もありました。
━━御社も大正4年に「田中式水引製造法」という特許を取られたとか。
田中 そうなんです。現在、生水引の製造はほとんどが機械化されていますが、昔はどこも屋内での手作業が常識でした。しかし、私の祖父で2代目の「宗吉」が、屋外の「ハザ場」と呼ばれる場所で作る方法を考案したのです。
それは簡単に言うと、天日で生水引を乾燥させる方法だったのですが、この「田中式水引製造法」によって作業効率が上がり、飯田全体に水引製造が普及していきました。大正時代にこうしたアイデアで特許を取ったおじいさんは、大したものだと思います。
━━宗吉さんは、飯田水引の先駆者的な存在だったのですね。
2年後に迫る東京オリンピック。
インバウンド増加を見据え、日本の水引文化を世界へ
━━今回「I-port」に申請したのは、どのような理由からでしょうか。
田中 結納品に変わる、新しい水引の市場を開拓したいとの思いからです。これは飯田の水引業界で組織している「飯田水引共同組合」としても取り組んでいることですが、2年後の東京オリンピックに向けて、海外からの観光客が増加するこのチャンスに、日本の水引文化を海外に発信していきたいと考えています。
まず、海外の人たちが降り立つ場所といえば、国際空港。今、空港に行くと「ガチャガチャ」の機械がズラーっと並んでいるんですね。ある時にふと「ガチャガチャと水引を絡めてみたら、面白いんじゃないか」と話題に上がって。
━━ガチャガチャのカプセルの中に、水引細工を入れるということですね?
田中 はい。現在、富士山や梅など、日本らしさを感じるものをモチーフに水引細工を試作しているところなのですが、進めていくうちにいろんな課題が出てきて……。一番の問題はやはり、水引の「認知度」が低すぎることなんです。
━━(試作品を見て)確かに水引のことを知らないと、これが伝統的なものであることや、紙でできていることなどに気がつかないかもしれません。
田中 富士山でも梅でも、水引で作られているからこそ価値があるんだと思うんです。もし、フィギュアなどそのほかのガチャガチャと並んだ時に、水引だとわからないとインパクトとしても弱い。今後、水引の認知度のことも含めて、どんな中身にしていったらいいのか、模索しているところです。
━━チャレンジするにあたって、おじいさんが特許を取られたことも大きなモチベーションになっているのではないでしょうか?
田中 そこまで大げさではないんですけれどね(笑)。私は30歳を前に会社を継いだのですが、今年は父親が亡くなった歳と同じ62歳になります。ただ、おじいさんどころか、まだまだ父親にも追いついていません。今の取り組みが、これからどう展開していくかまだわからない状態です。それでも、この業界にとって「挑戦し続けること」は、とても大事なのではないかと思っています。
必要なのは「技術と価値の底上げ」
━━現在は市場の変化のほかに、どのような課題を抱えているのでしょうか。
田中 飯田の水引加工は、そのほとんどが内職者によって支えられています。しかし現在は内職離れが進み、技術力の確保が大きな課題となっています。弊社でもピーク時には約200名の内職者が登録していましたが、高齢化が進んで、最高齢は90歳。現状で戦力になってくれる方は、30名いるかいないか……という状況なんです。
飯田と同じく水引の産地として有名な、愛媛県伊予三島との価格競争もあります。四国は水引の原料となる和紙の産地でもあるので、どちらかというと紙が主力商品。水引細工の単価設定が、飯田に比べると安価です。
もちろん大量に作るものに関しては、私どもも中国やベトナムなどへの海外生産にシフトして価格を抑えていますが、主体はやはり地元、飯田での生産。飯田には長年で培ってきた水引の高い技術もありますから。ただ単に安いということだけでなく、これからは、飯田水引の付加価値を底上げすることが必要だとも感じています。
言い訳のように聞こえるかもしれませんが、四国の方って商売上手というか、グイグイ来るタイプ。一方飯田の人はのんびりした気質だから、なんといいますか、マーケティングが下手なんですよね。
━━確かに飯田下伊那地域の人は、穏やかというか、のんびりしているね、とよく言われます(笑)。
田中 ですから今回、I-portの支援を受けて、いろんな方から事業に関するアドバイスやヒントをいただけたことは、本当にありがたいことだと思います。この歳にして、こうした挑戦は初めてなので、いい意味でプレッシャーも感じるというか(笑)。飯田の水引には過去何百年とつながってきた歴史はあるけれど、私自身も「水引はお祝い事」という頭しかなかった。いつまでも鶴、亀、松竹梅だけじゃダメなんだなと。
いま一度、飯田水引を「生活必需品」に
━━最後に、これからの展望をお聞かせください。
田中 飯田水引が「日常生活の中に転がっている」ものにしていくことが目標です。
もとをたどれば、水引がなぜ地場産業にまで発展したかというと、人々が日常的に使うものだったから。水引の前身である髪を結う元結は、女性にしてみたら、毎日使う化粧品のようなものですよね。
━━人々にとっての「生活必需品」だったわけですね。
田中 長い歴史を振り返ると飯田では、明治時代の終わりに「断髪令」が出されたことで、元結生産が縮小されるというピンチを一度、経験しています。けれどその後、冠婚葬祭に欠かせない装飾品という形で水引細工が発展しました。だから今は、二度目のピンチから這い上がろうとしている時なんだと思います。
━━まさに今、変化の時を迎えていると。
田中 はい。最近の流れとしては、水引がアクセサリーなどの素材として注目されており、弊社でも数年前にウェブショップを開設して生水引の販売にも力を入れています。ウェブショップの方は、おかげさまで10年ほど前から売り上げが伸び始めてきています。
目の前にはまだまだ課題が山積みですが、今回のI-portの取り組みが、飯田水引を世界に羽ばたかせていくための足がかりになればと思っています。なんにしても「夢は大きく」ですね。